生活雑記
目次(上にいくほど新しい)
- 芦生彷徨の歌
- 生まれた時代
- ぶなの大木
- すずめ
- 学会
- 雪の宿
- 卒論・修論発表会
- うまくいかん日々
- 京都の冬
- W先生とNHK-FM
- あとは寝るだけの時間
- 京都北山の玄関口について【出町柳は松本駅】
- 芦生の学生実習
- 吹雪の寝台特急
- 今日あったいいこと
- タイのビール
- 故郷
- 公開
- 花火
- ラジオと夏
- 最近おきたこと
- マンゴーの季節
- ミルクレープ
- Tempalayのライブに行った
- ホウキが7本
- 木曽谷を抜けて
芦生彷徨の歌
今年は論文書きが(ゆっくりとではあるが)進んだ反面,確固とした計画を欠いた野外調査は,進捗が少なかった。夏の終わりあたりから,そのことに思い悩み,かえってシミュレーションに凝ったりして,むしろさらなるダメージを受けたりして,散々だった。
ふと気がついたらもう区画法の時期だった。
まずいまずいと思い詰めて,ついには琵琶湖周航の歌のパロディまで出来てしまった。世代のかた,ボート部員,森林科学徒,滋賀県民など,旋律を知っている方はぜひ歌ってみてほしい。
芦生彷徨の歌
-
我は森の子 博士課程の
旅にしあれば しみじみと
のべつ幕なく 灼熱の
京の都よ いざさらば -
桂は太く 高くそびえて
苔むし土成す 幹の上に
珍しく残る 草花の
名を覚えんと 思ったとかや -
仮説もなくブナに 梯子かけ
あれこれ気づく こともあれど
いかに研究の 枠組みに
落とし込んだものか うだうだと -
すももの花園 茅葺きの宮
古い伝えの 木地師の里
森に仕事し 食もして
生かばや思いつつも 街へ帰る -
スランプ長く 根をおろして
早も葉枯らした トチノキの
荒い枝ぶり 見上げれば
春先の意気は 夢のごと -
初雪の宿舎に 灯る明かり
夕餉を囲んで 語らひて
悩みは吐いて 策を立て
来る春のしごと 明るからん
(2024-Dec-13) ^目次
生まれた時代
鉄道好きで,とくに古き良き鉄道が好きだから,もう少し前に生まれていれば,と無邪気に思うこともしばしばである。
例えばブルートレインの全盛期とか,連絡船のあったころとか。
しかし最近,NHK-FMの百年ラヂオで,『二十歳』という,寺山修司さんが脚本をして1966年に放送されたラジオドラマを聴いて,その冒頭の一節に私は衝撃をうけた。
“1歳。戦争が終わったばかりの空は,なんだかとても頼りなさそうに晴れていました。”
“2歳。わたしの子守唄は,歌にならない雑音ばかり。でも私は幸せでした。お姉さんたちの時代には,爆音と悲鳴とが子守唄だったんですから。わたしは生まれてくるのが,早すぎも遅すぎもしませんでした。”
このドラマの主人公は終戦の翌年に生まれた女性で,ここに引用したのは,主人公が二十歳になり,それまでの人生を振り返るくだりだ。主人公の,戦争(の余波)のリアルな体験にもとづく,平和な時代に生まれたことへのこころからの気持ちに,ハッとした。
私は,生まれた時代を呪うようなひどい目にあっていない。また一方では,このドラマの主人公ほど身に迫った気持ちで,うまれた時代に深く安堵するようなこともなかった。そのどちらも幸せなことなんだろうと思う。
さきの戦中の日本の各地で空襲に怯えた人々の,かつてゲットーに送られるときのユダヤ人たちの,いま,パレスチナで攻撃や飢餓にさらされている人々の,生まれる時代と場所を選べない子どもの気持ちなんて,どんなに乏しい想像をしても,恐ろしい…
私は思う。戦争から遠く離れているいまだからこそ,そのことを学んでその絶望を想像して,後天的に心に刻もう。いまの時代のこの場所に生きていることがどんなに幸せか。
そして,隣国の人たちと面と向かっておしゃべりをして,ありもしないのにしきりに喧伝されている対立が,やはりなかったということを確認しよう。たったいま,パレスチナの人に直接手を差し伸べられないもどかしさを,このような行動に,せめて変えていこうと思う,8月である。
そして私自身は,日常生活でわりと簡単に敵を作ってしまうタイプのニンゲンだ。これもがんばって変えていこう。
(2024-Aug-4) ^目次
ぶなの大木
もう2週間まえになるのか,例年より遅かった梅雨入り前に,芦生に行った。
たくさんのブナの木にはしごをかけて,何メートルもよじ登った。空中に立つ楽しさ,落下の恐怖,新しい視点を得ることの好奇,そういった本能的で根源的な感情を身いっぱいに浴びて,すっきりとリフレッシュするような心地よい疲れを感じた。
あるブナの大木を登ったさきで,目の端を毛玉が素早く動いた。改めて見ると,リス?いや,目がとても大きいし,手と足の間に水かきのようなつながりがある。モモンガだ!ブナの幹や枝には穴やくぼみがおおいから,この大木をねぐらにしているんだろう。そう思って見回すと,昆虫,鳥,苔,地衣類,それにヤドリギ,いろんな命が空中に,ブナの木に宿っているのが見えてくる。そうそう,メタン生成菌ものその1つだ。
樹木は一次生産者として太陽から生態系にはじめのエネルギーを取り込むだけでなく,立体的で複雑な住処をほかのものに提供している。それが目に見えてわかるこの仕事が好きだ。
ふと想像してみる。いま,はしごにビレイしたハーネスに体重を預けてここに留まり,幹に生えた地衣類を剥がして口に入れ,虫を捕まえてその命をいただき,幹を伝う雨水で喉を潤し,モモンガと星を見上げたら(モモンガは食べない),わたしもブナの樹冠生態系を構成する一員になれるだろうか。毛糸玉のように複雑に絡み合った林冠のエネルギーフローの一部になれるだろうか,わたしも。
さらに考える。かつて,森に住む人が,山菜やきのこを食べ,渓流の魚をつり,たまに手に入れるシカをごちそうとしてありがたがり,そして日用の品々は竹から,土地の木々から作り出し,樹皮から紙や着物を作り出していたとき,ニンゲンは明らかに,生態系の一部だっただろう。モモンガが樹上に暮らすように,大昔にブナが固定した二酸化炭素からなるリグノセルロースの分解の果てにできた低分子から,メタン生成菌がメタンを作るように?
人々が農業を始め,都市をつくり,やがて食べ物をふくむエネルギーを時間も空間も離れたトコロに求めるようになるまでの,どのステップに大きな間違いがあったのだろうか。たしかにあるように思えるのだけど。
(2024-June-24) ^目次
すずめ
うまくいく日もぽつぽつあるけれど,今日はバタバタして終わったなぁという日が多いように感じてしまう。
例えば,論文を書き始める前に読んでおきたい論文があり,それが遅々としてすすまないので書く方もすすまず,とはいえ書かねばならぬので見切りで書き始めてしまい...みたいなことが多くて。
そういった強い懸念事項がいくつかあって,なおかつその1つ1つを棚卸しすることも怠っているから(それにも気力ときっかけがいるからね)漠とした,そしておそらく現実より増幅された"あれもこれもできていない"という考えがアタマを占めていて,大変よくないなぁと思いつつそのままになっている。
これ,人間あるあるですよね。
週末はアタマを休めて平日のパフォーマンスを上げるべしという強迫観念にとらわれて,一方で,ほんとうは懸念事項の棚卸しをしたほうがええんやろなとも思いつつ,でも結局は無気力に散歩することにした。出町柳の自宅から,柳通りを東にいって,百万遍で牛丼と紅生姜丼(大東京ビンボー生活マニュアルリスペクト)を食べると必要以上に満腹になって体が重い。
お会計でクレカを出したが使えなかった。最近,何回かこうして弾かれている。残高不足・引き落とし失敗という文字がよぎる。信用情報...クレカ凍結...どきどき。
話はそれるが,学振をもらい始めてみたら,思ってたより生活がぎりぎりで不安になっていた。だからどきっとしてしまったのだ。学振のお給料,研究遂行経費を抜いた月14万円はお給料としては安すぎる。社会保障もまったく無いし。しかもこの金額,ウン十年変わっていないらしい。博士学生は周りの学生と比べてしまうから,これだけでもありがたいとか思ってしまうが,やっぱり社会人や海外の博士学生と比べると異常に安い。文科省さんよ,予算請求がんばってくれ。政府よ,お金出してくれ。
ところで,クレカが使えないのは,単に限度額の問題だと判明。とりあえず原因がわかってよかった。
もう夕方5時で閉まった知恩寺の門の潜戸を抜けて,阿弥陀堂の犬走りでごろりと寝てみる。東大路のほうに傾く日をぼんやり眺めたりして。
ややお腹が落ち着いてきたから,帰えりがけにセブンのコーヒーを買って帰ろう。すこし北にそれて,養正小学校の公園のトイレに寄る。子どもと学生が,それぞれサッカーとキャッチボールをしている。私の学生生活ではサッカーする友達できなかったな。まぁサッカーしないからな,当然か。
できるだけ細い小路を選んで,園芸屋ヨコのセブンに向かう。まるでつる植物が木の幹に絡まるように小道を選んで歩いたせいで,大きめの通りを素直に歩くおっさん二人組と,離れては再会して,を3回繰り返してしまう。おちょくってんのか!とどやされたらどう返事しよう... あっ!いや,細い道が好きなだけなんです...って?
買ったコーヒーを,おにぎり屋の横みちに入ったベンチで飲む。しばらくいると,頭上の電線,雨樋,瓦屋根に30〜40羽の雀がいることに気づく。彼ら,にわかに道に降りてきて何かつつき始めた。そのうち数羽は,なんとおにぎり屋にちゅんちゅんと入店しているではないか。雀=米好きという稲作伝来以来の図式(ほんまか?)を目の当たりにして興奮した。
雀の催促が功を奏したのか,おにぎり屋のおっさんが精米くず ―欠けた米粒だろうか。糠には見えなかった― を2握り,横道に振る舞った。それから私は半時間ほど,雀たちが路面と電線とを行き来しながら腹を満たす夕景を眺めていた。道を通り過ぎる人の,頭上の雀に気づいたものはその数に驚いて,気づかないものはただ通り抜けていくが,そのどちらにしても私はこの雀らの行動について,おまいらより知っておるぞ,なんせずっとここでぼんやり眺めておるからな,という気持ちになった。人が来,大群が飛び立つたびにおこる,ヴァァ!という大きな羽音が面白い。すずめを追って見上げた電線のさきに,peachのジェット機のピンク色の尾翼が見えた。
ふと気づくと,いつのまにか大半の雀は家に帰ったらしく,もう4羽ほどになっていた。帰るか,と口に出して言って,立ち上がった。さっきまで見送っていた通行人のがわに自分がなるのだなと思った。
(2024-June-8) ^目次
学会
先週,農業気象学会というものに参加した(この原稿は2024年3月末に書いてずっと塩漬けになっていたから時間がずれている)。以来,こんなことを考えていた。
農業気象学会というからには,農地での温度・降水・日射などの微気象観測と作物の成長や収穫とを結びつけるような研究から始まったのではないかと想像している。いまでもそういった研究は学会で一派をなしているけど,ほかには作物内部の光合成・蒸散や資源分配といった植物生理学的な研究から,渦相関法を使った生態系フラックス観測,リモートセンシング系の発表も多くて,彩どりゆたかな学会だと感じた。
そして,そのどれでもない私のような研究もとっても温かく迎え入れてくれて嬉しかったし,飲み会では同期にあたる友達もできた。周縁の研究でも歓迎してくれるのはこの学会に限ったことではないけれど,農業気象は特にその傾向が強いそうで,学会員の方々はそのことを誇らしく思ってらっしゃるようだ。飲み会の同じテーブルになった人たちの中にも,ぱっと見ただけでは何故この学会に来てるか想像できないようなご所属の方がたくさんいた。
いっぽうで,客観的な事実として,私の研究はこの学会のメインストリームではないな,とは思った。だから嫌だとかではなくて,むしろ農業気象はすきな学会だ。
ならば自分はどんな学問領域のメインストリームなんだろう。今後,わたしの「ホーム学会」はどこになるんだろう。
私の研究は,そのメインストリームではないにせよ「森林生態学」に十分ふくまれると思う。幹内部のメタン生成は樹木の生理活動ではないし量的にも小さいから,メタン生成・放出の多寡が樹木種の適応度にフィードバックするようなケースはほとんどないだろうけど,材の構造や成分といった形質がメタン生成になんらかの制限をかけているようではあるので,メタン放出に樹種間の多様性があったりする。
森林生態系研究の一部ではあるし,そういった切り口で,生態学会で発表したこともある。
同じように,樹木生理学や木材解剖学のメインストリームでもないだろが,明らかに,そしておおいに関わりがある研究であると思っている。だから木材学会にも出たことがある。これまた楽しい場所だった。
物質循環の研究に含まれるのは間違いない。森林生態系における炭素の動きの一部を見ている。二酸化炭素でなくてメタンなのが外しポイントだし,森林✕メタン研究においては土壌でなくて樹木なのが珍しポイントである。
メタン生成はメタン生成菌によるものだから,微生物学でもあろう。ただ私にそのようなバックグラウンドがないから,いま勉強中である。
こうしていろいろ考えてみたけれど,そもそも,自分の学問領域はコレ!と言えるとなにか良いことがあるんだろうか。あまりない気もしてきた。
ところで,自意識としては,私は森林科学徒であると思っている。森・フィールドが好きだし今も演習林で調査してるし,葉っぱ実習が楽しかった。学振も森林科学で出した。そして学部生のころは林業のことを考えてた時間が長かった。圃場やハウス内での実験がメインで,環境をコントロールできる農業気象の人たちが自分の目に新しく映るのは,こういった自分と比べてのことだろう。
一方,実際にやっている研究の技術的な面では,土壌呼吸の人たちが昔からやっていた事に近いと思われる。その点やはり,農業気象学会はもっとも近い学会の1つだと思う。そして今年の夏は,生物地球化学研究会の合宿に行ければいいなと 思っている。
そして将来は,樹木生理学や木材解剖学の領域にも発展させたいと思っているし,芦生でやっているからには複雑な森林生態系を踏まえた研究もしてみたい。うーむ,今年はそれぞれの切り口で研究を併行して,いろんな学会に出るのを目標にしてみようかな(そんなことできるんか)。
結局のところ,自分はズバリこの領域の人間です!といえるような領域が私には無い。でもそれが新しいってことだし,それをうまく楽しめている。これからも,いろんな領域,学会にまたがりながら,研究を進めていくことになるだろう。 それに,私からみればバッチバチのメインストリームに見えるような人だって,意外と本人は私と似た心持ちなのかもしれない。
でもな〜,とはいえ,学会で久しぶりに会って,酒を飲みながらずっと幹メタン放出について2〜3時間語り合うよな同期がほしいなとも思ってしまうんだよな笑
とか思っていたら,4月に入って,幹メタン放出をやっているM2のNathanがフランスからやってきた。この4月と5月は彼と芦生に通って調査をしている。よる,彼と食堂での幹メタン放出談義は尽きることがなく,とてもびっくりとてもうれしいことだ。
ちなみに,Daniel(指導教員)にこういった話をしたら,ひとこと,「EGUに行くべし」と言われた。
(2024-May-27) ^目次
雪の宿
修論がや〜っと終わったので、雪の温泉宿に出掛けた。雪景色のなかをずっと行って、その宿はあった。着いて荷を解いてから、森に出掛けた。宿を見下ろす斜面に座り込んで息をつく。鳥の鳴き声、遠く高く通る大風の響き、枯葉がカサッと転がる音。
研究室の机から離れて、森で休む心地よさよ。
夕方、湯船に浸かる。もうあたりは薄暗い。空に,青く低い雲がまるで家路を急ぐように北に走っていく。その向こう,はるか高くの雲は朱鷺色に照らされていて,日中の温かさの名残りはもうそれだけだ。さらに仰ぐと、冷たい半月。
このようにして私は修論が終わったことを噛み締めている...!
(2024-Feb-19) ^目次
卒論・修論発表会
修論を提出した。卒論・修論の発表会も終わった。ほっと一息である。
この時期が好きだ。発表が近くなると、ほとんど毎日のように皆で集まり、発表練習。互いに意見して磨き上げる。体裁だけでなくて、内容も加速度的に詰まっていく。
量的な改善が質になり、発表者の自信に繋がっていく過程がありありと見える。とくに卒論発表はその伸びが顕著だ。
そこここの研究室で同じことが起きているのだろう。聞いていて気持ちのいい発表も多い。見応えのあるデータや解析、堂々とした発表、聴衆や教授の数に物怖じせずむしろわくわくしているような表情、打てば響く質疑応答。
そして、数件の発表が終わって「当研究室からの発表を終わります」という声に改めて送られる拍手は、連日繰り返された発表練習に参加した皆に対してのねぎらいでもあると思う。
(2024-Feb-16) ^目次
うまくいかん日々
ここのところ思うように進捗がうまれない。あたまがボーっとして集中できない。 まあ明らかに、この秋から冬にかけて、詰め込みすぎて疲れているのだと思う。
このブログはわりと調子のいい時にばかり更新するから、その内容から再構築するといいかんじにうまくいってる大学院生が出来上がるはずであるが、もちろんそれは私ではない。
ホンモノの私の1週間はこんな感じだった。
土曜日。彼女の知り合いの立ち飲みマスターの方に誘っていただいて大阪で朝から夜まで立ち飲みをする。大阪は大変愉快な街だと知る。いい心持ちになるが進捗は無い。だが良い。週末である。
日曜日。東京で親戚中が集まるクリスマス会に行く。楽しかったが日帰り東京はどちゃくそ疲れる。帰りの新幹線で血の涙を流しながらパワポをつくる。
月曜日。ゼミ発表。なぜ今日なのだ。もちろん上手くいかない。それでさらに疲れる。そのあとラボの忘年会。酒を飲むと楽しくなって結局午前3時までみんなと話す。
火曜日。起きたら昼。慌てて学校にいくが、集中できるわけがない。なんとか修論の題目を出す。そのあと友達と3月の日本海の離島旅行の計画を話し合う。心はすでに日本海の荒波のかなた。島のストリートビューなどをみて時間を溶かす。
水曜日。彼女が帰省してしまう。八戸の祖母宅に行くらしい。私も東北に行きたい。家でぼーっとしていたら指導教員の持ってる授業に行き忘れて落ち込む。従兄弟が泊まりに来る。
木曜日。学校にいく。面白い解析を思いついてやってみて、出来た。修論提出1か月前という現実から目をそむければ、これは素晴らしいことだ。しかしその後Fortranのデバッグに時間を溶かし、午前2時半くらいまで研究室から帰れない。バグは治らず。そもそも今日やる必要がなかった。夜更かししていいことなんて一つもない。
金曜日。起きたら昼前。目と頭も痛い。夜更かししていいことなんて一つもない。ひどい頭を整理してして良いインスピレーションを得る必要があり、そのためには散歩に行く必要がある、とこの時は思った。下鴨神社に足を向ける。屋台が出始めている。自分の干支のお社に参った。茶屋でお汁粉を食べる。なんだか面白かったが、結局のところ、ただ歩いて食べただけで、インスピレーションとかはなかった。その後もこれではいかんこれではいかんと呟きながら部屋をぐるぐる歩き回るも進捗はない。どうしようもなくなって、父親に、なにもかもだめだから帰省を諦めるかもしれぬと電話をする。どちらでも良いぞというようなことを言われた。
土曜日。さすがにまずい。日付もなんと12/30になってしまった。帰省についても決断する必要がある。午前中は集中すると決めてパソコンに向かう。するとこれが上手く行く。なんやねん。そこそこすすんで満足して、結局帰省することにした。家をきれいにしてから京都駅ゆきの17系統に乗る。
バスの車内も河原町通も混んでいて、駅に着く頃にはぐったり疲れる。帰省し始めたのを後悔する。しかしなんとか名古屋まで辿り着いて特急しなのに乗ると、やっと山梨に帰る安心感のようなものを覚え始めた。それでこの文章を書く。
うーむ修論はもっと早く始めるべきだ。(この結論でいいのか?)
(2023-Dec-30) ^目次
京都の冬
寒くも暖かいフィンランド(記事よんでね〜)から帰ってきた京都は暑いくらいだったけれど,ここ数日,しっかり冷えこんできて嬉しい。
朝起きて換気のために台所の窓を開けた。股引を履き,ダウンを着込んで,お湯で皿洗いをする。開けた窓から,白っぽい柔らかな陽射しで照らされた京都が見える。正月のような雰囲気で好きだ。冬は好きだ。
しかしこの冬は修論提出の冬である。しぜん夜まで研究室に残り,外食がちな日々が続く。先日のお夕飯,田中里ノ前のケニアにいったら,andymoriのファンファーレと熱狂が通しでかかっていて,とてもよかった。店員さんの趣味だそうだ。いいですよね,と伝えた。
andymoriに長澤知之(長澤も大好きなアーティストなんだけど)が合流したALというバンドの,メアリージェーンという曲のサビに,
〽時が止まった ガンジスの午後
という歌詞がある。山梨の実家にいたころ,家族みんなでこれを聞いていて
「時が止まった 元日の午後」
と空耳して,みんなでゲラゲラ笑った。
山梨の冬は,寒いけど雪は多くない。枯れ草色の白っぽい黄色っぽい景色。今日はなんにもしない!ガラス戸をぴしゃりと閉めた縁側で,午後の陽射しにぬくぬく... そんなゆったりとした元日の午後が目に浮かぶ。この空耳はお気に入りだ。
皿洗いを終えて,しばし窓の外を眺めて息をつく。
京都の冬は,意外にも山梨の冬に近いかもな,とか思う今日このごろ。
(2023-Dec-22) ^目次
W先生とNHK-FM
4人で長治に滞在していたが,先生や他のメンバーは先に帰京してしまい,昨夜は1人で泊まることになってしまった。
たまたまその日のお昼,「芦生原生林今昔」の著者のW先生がツアーで来演していらっしゃって,初めてお会いした。先生はかつて芦生の教官であられ,長治の旧学生宿舎にいらしたとき幽霊の冷たい手に首筋を撫でられた話をしてくださった。この話を長治小屋の前の原っぱで聞くと臨場感たっぷり...。
今夜はここに一人なんです,と打ち明けると実に愉快といった顔をされて,何が見えるか楽しみだねぇとおっしゃった。
NHK-FMは,こういった夜中の奥山に独りぼっちのリスナーがいることを認識したほうがよいかもしれない。なぜ夜は不気味な現代音楽や,美しくも恐ろしいオペラばかり流すのか... 昨夕2回もスピッツの楓を流してくれたFM福井を見習ってほしい。
今日起きてラジオをつけると,吹奏楽の時間。お決まりのディズニーメドレーであった。今朝ばかりはこういうのがありがたかった。
(2023-Nov-10) ^目次
あとは寝るだけの時間
NHKの「あとは寝るだけの時間」をあまり欠かさずに聞いているんだけど,ピース又吉とパンサー向井,サルゴリラ児玉というトリオでやっている,ゆるぐだラジオだ。大学に入ってから,母に「めっちゃおもしろいよ」とすすめられて聞き始めた。
又吉さん向井さんは知ってる人が多いけど,サルゴリラ児玉さんだけ知名度が低い。かくいう私も児玉さんの顔を知らずに聞いていた。そんな児玉さんは何年も「今年こそはキングオブコント優勝!」と言っていたが,先週の土曜日ついに優勝してしまった。
サルゴリラのコントはめちゃくちゃおもしろかった。児玉さんの顔も認識した。今,リアルタイムで「あと寝る」を聞いても,はじめて児玉さんの声が実態をともなって聞こえている。うわ〜優勝おめでとう!
(2023-Oct-23 あとは寝るだけの時間) ^目次
京都北山の玄関口について【出町柳は松本駅】
先週,ながいこと準備していた芦生での大掛かりな実験が終わった。たいへんだったけれど上手くデータが取れてよかった。とおもったら,11月末にフィンランドにいく準備が全然進んでいない... そのうえ修論も出さなくてはならない...なぜこんなに予定を詰め込んでしまっただろう...
それはさておき,タイトルにもある通り,私の頭の地図では,叡電出町柳駅はJR松本駅に対応している。 関東の山好き以外の人のために解説しておくと,長野県の松本駅は北アルプス登山の玄関口である。東京の人たちは,かつては急行アルプスや夜行普通441Mといった列車にのって,現代では特急あずさにのって,中央本線を松本駅までやってくる。松本駅からは沢渡行き,沢渡からは上高地行きのバスで,いよいよ登り口となる上高地に入る。
叡電出町柳はちょうどその松本駅にあたるのではないだろーか。なぜか。まず叡電出町柳には伏見・宇治や大阪から京阪電車で来れる。そして叡電出町柳駅の脇のバスターミナルからは,京都バスの広河原線,朽木行きの比良線(週末ノミ)が出ている。かつては雲ヶ畑行きの37系統もあった。これはもう実質松本駅である。
もう一つの共通点は,出町柳と松本のそれぞれを起点とする,叡山電車と松本電鉄という鉄道線の存在だ。どちらの路線も,登山口行きのバスと並走する形になる。京都の広河原行きは鞍馬まで,朽木行きなら八瀬まで。松本の沢渡行きなら新島々まではバスとの並走だ。しかし,わざわざ1つ乗り換えを増やして鉄道にのる登山者は多くない。この点も揃っている。
枡形商店街にいくために駅前を通りすぎるとき,あぁここは実は松本駅なのだ,と思って,あちらの高い山々を思い出すわけだ。気分によっては,甲府や韮崎,茅野駅へと置き換わる。変幻自在の出町柳,すると鴨川は釜無川?梓川? ちなみに甲府駅の場合,どちらの登山バスも「広河原行き」だという共通点もあってよろしい。
まぁそんなわけで,お山からノボッてきた京都の院生の妄想でした。
(2023-Oct-22) ^目次
芦生の学生実習
森林科学科の最大の楽しみに,泊まりの研究林実習がある。京大は,たとえば3回生の夏には最大で北海道1回,芦生2回の実習がある。そのうちの1回がうちの研究室持ちの実習で,芦生で3泊4日の行程。われわれ大学院生は授業補助のバイトとして参加する。
実習は,昼に働き,夜はメシをつくり,飲む行事である。
今年の学生たちは,この3拍子の1つも欠けることなくこなしていて,素晴らしかった。つられて,自分もちょっとはしゃいでしまった。
昼の作業は,プロット張りと毎木調査,樹木個体のバイオマス(体の重さ)の計測。クラシックな内容である。学生は,班のメンバーと手順を確認し,効率の良い方法を考えて,作業を分担し,データを集めて処理するという一連のプロセスを林内で実践する。しかし同じ学年でも,班によってこの進め方が変わってくるのが面白い。
たいていは精度と効率がトレードオフになるけれど,しばしば精度を保ったまま効率を上げる工夫も見られた。作業後に,内容的な結果だけでなく,作業法を振り返るような時間があってもいいのかもしれない。自分の研究が始まれば,精度と効率に思いを馳せる時間が長くなるから。
授業補助バイトは,作業に口を挟んだり,やる気を維持させたり,あるいは一緒に疲れたり憤慨したり,はたまた作業を切り上げて川に繰り出す決断を下す仕事である。後半のいくつかはうまくできた気がする。
それにしても,いつも研究で利用している芦生が,これ以上ないほどにぎやかに,エネルギーあふれる空間になっていたのが面白かった。いまこの文章を,静かな午前中の長治小屋で書いているからなおさらである。
芦生の夏は,大量の実習を迎え入れる"動"の季節。いまやっと10月に入って,実習ラッシュも落ち着いたようだ。技官さんも事務職員さんも一息ついただろうか。すると急に気温が下がり冷たい風が吹く。早くも冬を予感させる。われわれの研究でも技官さんのお仕事でも,雪が降るまえにあれをしてこれをして...と考えを巡らせる時期。芦生はあっという間に一年がすぎる気がする
(2023-Oct-3) ^目次
吹雪の寝台特急
ここ数日,体調を崩している。高熱と喉の痛みと咳。完全にCovid-19のそれだけど,抗原検査を何度しても陰性なのは不思議だ。
熱帯夜に高熱にうなされるという最悪の状況。夢に出てきたのは,冬の秋田に向かう寝台特急だった。
私は幼い頃,両親の仕事についていって秋田にいくことがよくあった。山梨に越してくる前は東京から寝台特急あけぼのに乗っていくこともあった。この頃の記憶はほとんどないけれど,その数年後のある冬のことはかなり強く覚えている。
そのころはもう山梨で暮らしていたが,あけぼのが満席だったか運休したか,とにかく直江津まで車で北上し,寝台特急日本海にのって秋田を目指すことになった。
このときは,父と二人だった。随分前の丸っこいエスティマにのって,一路,直江津を目指す。日はとっぷり暮れて,妙高高原のあたりから積雪は深くなり,吹雪のようになった。しかし我々の前をいくのはゆっくりと走る除雪車。発車時刻が迫っている。暗闇からとめどなく現れる雪が,無情に流れ去ってしまう時間を強調するようだった。
たぶん父親は直江津駅に電話をしたんだろう。雪で遅れていて,発車ぎりぎりになってしまいそうなのですが...すると直江津駅の駅員氏はすごかった。
積もった雪に輪郭をおぼろにした直江津駅。その玄関に車を寄せたとき,すでに寝台特急の青い車体はホームに収まっていた。待ち構えていた駅員氏が言う,「どうぞ,乗り込んでください!キーは私に!」駅員や車掌の裁量で止めておけるぎりぎりの時間だったのだろう。駆け込んで乗った日本海はすぐさま発車した。丸っこいエスティマは,駅員氏が駐車場に停めてくれたのだ。
そのときの車中だったろうか。父はB寝台を抜け出して車内探検に連れて行ってくれた。寝台室の斜めの開き戸,車間の一対の引き戸,次の寝台室の開き戸... 揺れる薄暗い車内で次々に扉を開けて歩くのが楽しかった。
そして列車の最後尾と思われる扉に来た。扉の窓はザラメのようなガラスで向こう側がぼんやりとしかみえない。父は本当に最後尾であるのを確認するためか,あるいは単に私をからかってか,鍵のかかった扉のノブに手をかけガチャガチャと言わせてみせた。
私は,もしなにかの間違いで扉が開いて,この暖かくて安全な車内から夜の雪原に放り出されてしまったら...と想像してしまい,それを本気で恐れた。まず助からないだろうと思った。そして父とB寝台に戻り,暖かい毛布の中に戻って,枕のとなりの壁を一枚隔てたむこうに流れ去る,雪と闇だけの世界を想いながら眠りに落ちた。
雪との戦いの先にあった直江津駅とブルートレイン。その暖かい車内にはベットがあり,毛布があり,2重の扉で外の吹雪から守られている安心感。そして,それを支える直江津駅の駅員氏のような血の通った鉄道員。この一件は,私の価値観や趣味を作り上げる大事な出来事だったように思う。
この,雪原のなかでの安心な車内という状況への憧憬は,鉄道趣味だけではなくて,高山の山小屋,もっといえば,険しい山の上にある高原や湿原への想いにも繋がっているのだけれど,もしわかっていただける方がいたらうれしく思う。
(2023-Sep-3) ^目次
今日あったいいこと
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清水寺から発射された"観音さまの慈悲ビーム"が盆地を覆う低い雲に当たることで空に怪しげ浮かぶ光の点,通称「清水観音慈悲UFO」を久しぶりに見ることができた。
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今出川通の知恩寺の門の東隣,インドカレー屋の2階にある古着屋 IPL に初めていった。JAZZYなめっちゃいい雰囲気やん。こんなんあったらもう四条行かなくてええやん。
"I MAY BE WRONG
BUT IT'S HIGHLY UNLIKELY"
とプリントされた黒いシャツを見つけて即買った。 -
百万遍の横断歩道の赤信号を待っていたら,ちっちゃい子連れの2家族。車道すぐ手前できゃっきゃしてたからお母さん達が「赤信号はな〜に〜?」と釘をさすと子らは元気に「止まれ〜!」と返す。
さて,交差する車道の信号が赤になり,矢印信号になりそれも赤になる。とそのとき,信号待ちをしていた別の大学生が,いつもの癖で見切り発車をしかけたが,我に返ったように立ち止まり,青信号を待って歩き始めた。子供たちに悪いお手本を見せるわけにはいかない。笑
(2023-Aug-25) ^目次
タイのビール
タイではビールに氷を入れて飲む。(調査でタイに来ております)
初めてのことだったのでびっくりしたのだけど,郷にいればなんとやらと言うし(タイでは,"片目の国では片目で過ごせ"
というらしい),そのグラスを用意してくれたのがアイスというニックネームの青年だったので,ノーアイス!というのも憚られ,試してみるがやっぱり薄い気がする。
しかし料理がくると気が変わる。タイの料理はとても辛いものが多い。青唐辛子の,5分くらい口がヒリヒリする辛さ。自分は結構すきだけれど,でも辛い..!縋る思いでビールを飲む。すると氷が入ったビールの冷たさがありがたい。そういうことね!と思う。
辛い物,ビール,辛い物,ビール... たらふく食べて飲んだのに大して酔わない。これも氷のおかげかしらん,とふわふわ考えながら,海風に吹かれながら,ペタペタ歩いて宿に戻る。すると,日本からの先生方は,2回戦だ!と盛り上がっているから,よろこんで参加する。
しかし先生方はビール好きの呑ん兵衛であるからして,氷を入れることを良しとしない。さっきのつもりで何杯も飲むと,あっという間にベロベロである。タイ,恐ろしき国かな。
あ,いまですね,タイは悪くないだろ!というお便りをいただきました
(2023-Aug-21) ^目次
故郷
お盆を穏やかに過ごすのは久しぶりだ。異常気象のこのごろ,田舎に帰省して「昔はこんなに暑くなかった!」と思う人も多いことと想像するが,北杜は変わらず涼しくて嬉しかった。帰っていた5日間がたまたまそうだったのかもしれないけれど。変わらないことといえば,久しぶりに会った友達が昔とおんなじで嬉しかった。一方で変わったのは,高速道路のICのあたり。すでに1軒あるのに新しくドラッグストアがもう2軒もできた。無理のない縮減を目指すべきこの時代に,なんとむなしい発展だ,と思う。ドラッグストアみたいなロードサイド型のチェーン店ができると,大きく風景が変わる。その場所はもとは田んぼか小さな建物だったから。周囲の風景から際立って目立つよう設計された看板ができるから。 こうした故郷の変化に触れるたび,故郷は変わらないでいてほしいと思ってしまう。けれど,どんな変化も受け入れたくない,というのはわがままなのだろう。そこで暮らす人たちにだって必要な変化はある。
でも「故郷」が心のよりどころになるうえで,まず大事な要素は「変わらない」ことだ。上京した大学一年生が初めての夏休みで地元に帰って求める安心は,このタイプのやつだ。 しかし現実には,故郷は変わっていく。これはその地にとっては自然なことだ。けれど気になってしまう。まして,いつもは遠くにあって思っていながらもたまにしか訪れないような場所は,より変化が目についてしまうのだろう。
そう考えると,親元を離れて大学へ行き社会へ出るなかで,自己を確立していくということの実は,「故郷」は変わりゆくものだということを受け入れた上で,自分の中に変わらないものを作っていくことのように思える。
いま,こんな気持ちになっている。
(2023-Aug-13) ^目次
公開
年始に初めて,コツコツとコンテンツを作り足してきたこのホームページの存在を,はじめてFacebookで公開した。
Facebookの投稿は本当に久しぶりだったから,お知り合いがた(母の知り合いとかなり重複する)から,たくさんの感想や応援メッセージをいただけて,とっても懐かしい気持ちになり,嬉しかった。今年の夏の帰省はがんばってスケジュールをたてて,友人知人にたくさん会う予定。懐かしい夏になりそうだ。
(2023-Aug-4) ^目次
花火
芦生から帰った翌日の日曜は車で滋賀に出かける予定だったが,岩倉の駐車場まで来てから車の鍵を忘れたことに気づいた。
妙蓮寺の本堂の軒下で心を落ち着けてから地下鉄で街に繰り出し,中京郵便局前のカレー屋ですっかりごきげんになったあと宮崎駿の新作をみて,裏寺町の居酒屋で少し引っ掛けてから鴨川を歩いて左京区へと帰る途中,そういえば今日は宝ヶ池で花火があることを思い出した。
宝ヶ池には間に合いそうにないし間に合ったとしてもまたあんな北へ行くのは大変だからと,丸太町橋の歩道の出っ張りから北の方角に目を凝らし、見えるとも知れない花火を待つことにした。
さて、果たして花火は,意外にも鴨川を北に延長した線のやや東側に,音もなく弾けて見えた。我々は無事に、缶チューハイをすすりながら短いショーを楽しんだ。
京大に入って6年目にして初めて京都でみる花火は,河川敷の木々の樹冠すれすれに背伸びをしているようで、とても可愛らしかった。
(2023-July-30) ^目次
ラジオと夏
台所の西向きの窓際に置いた防災ラジオで,α-stationを聞きながら料理をしている。(私はこの時間が好きだ)
しかし先週のある夜,ラジオはEarth wind and fire の曲が終わるタイミングでフェードアウトして,鳴らなくなってしまった。まだ夜の21時くらいだったけれど,あまりにも良いタイミングで音が消えたので,今日のα-stationは早く停波するのね,と不思議と納得してしまったが,先日不意に原因がわかった。
それは農学部への通学路でのことだった。東大路から馬場の脇の西門へ行くには,知恩寺の北側を墓地の塀に沿って行くことになる。この塀は背が高くて2mか3mはあるので,日差しが強いときは塀の日陰の中をずっと歩くことができるのだ。この日も暑かったので,日陰の中を通り抜けようと思ったが,夏の昼間である。太陽高度が高すぎて入り込める影などほとんどなかった。
それでわかった。うちの防災ラジオは太陽電池(最近太陽電池と言わなくなったよね)がついていて,午後の日差しで発電して夜の放送を聞く電力を賄えるのが美点なのだけど,この発電ができなくなってしまったのだ。
西向きの窓の外には庇のついた外廊下がある。冬から春にかけては昼間も太陽が低くて,庇からの太陽光も深く入り込むから,午後の1時か2時の明るい日差しがラジオに到達して発電できるけれど,夏はおそらく17時ごろにならないと光が入ってこないんだろう。
私はラジオの動作から季節を感じられたことたいへん満足した。いっぽう京都の夏の酷さは凄まじいものがある。いずれ防災ラジオが使える季節が涼しさともにやって来るのを楽しみに待っている。
(2023-July-17) ^目次
最近おきたこと
まとまりのあることが思いつかなかったので,最近おきたことを箇条書きに...
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おやしらずを抜いた。自分の止血が下手でたくさん血を吐いた。
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研究室で集中力続かない問題を解決するために,50分タイマーをかけるとわりと上手くいくことがわかる。初めはキッチンタイマーを使っていたが,Macでうまく使えるアプリを探していたら,”ポモドーロ・テクニック”という起業家とかが使っていそうな集中メソッドがあることがわかる。25分集中して5分休む,を繰り返して集中力とペースを保つということらしい。やや鼻にかかるが,集中はしたいので,無料のポモドーロタイマーアプリである”Flow”を使ってみると,とても調子が良い。研究者は自営業で起業家なのかもしれない(しらんけど)
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百万遍北のリサイクルショップの店頭に,トラの歩く姿の置物(でかい)が置いてあって,かなりビビった。すれ違った手押し車のおばあちゃんも声をだしてびっくりしていた
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JR東日本が客車タイプの新型寝台列車を導入する夢をみた。JR貨物の機関車が牽引していた
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調査と短期研究室滞在で海外にいく予定が2件,夏休みに大きめの国内旅行が2件あって,いろんなチケットを予約している。金銭面で,もちろん家計は計算しているので大丈夫なはずだけど,漠とした不安が...
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1945年の昨夜(7/6-7)は「七夕空襲」と呼ばれる甲府空襲があった夜だ。実家のある北杜市のあたりからも,南の空が赤く焼けるのが見えたらしい。かつて甲府は美しい城下町だったそうだが,戦争は人の命だけでなく,景色と記憶も奪ってしまう
(2023-July-7) ^目次
マンゴーの季節
けさ紙パックの自販機で,バングラデシュからの留学生と一緒にジュースを選んでいた。
彼は,照れくささと誇らしさが混ざったような顔で,「僕の国ではいま,マンゴーの季節だから」と言ってマンゴージュースのボタンを押した。
切なく,それでいて鮮やかな風が吹き抜けたような感じがした。
その夜,友達の家でたまたまマンゴーを食べさせてもらった。その痺れるような美味しさに驚きながら,もう3年は本国に帰ってない彼のこころを想像してみたりした。
(2023-Jun-25) ^目次
ミルクレープ
東京に蟻鱒鳶ルというビルがあるが,それを作っている岡さんと母が知り合いで,小学生の初めの頃に母と一緒に見学に行ったことがある。そのときの断片的な記憶の1つに,ミルクレープの美味しさがあった。
時間調整だかで,蟻鱒鳶ルの近くの交差点角のビルの2階に入っていたオサレな喫茶店で,生まれて始めてミルクレープはとっても美味しかった。
それ以降,もういちどミルクレープを食べたいと思って機会を伺っていたが,山梨の田舎では喫茶店に行く機会もなかなかなく,再会の日は先延ばしになるばかりだった。
しかしそれ以上にミルクレープとの再会を遠ざけた要因は,その名前を忘れてしまったことだっだ。
そんなある日のこと,小学校の修学旅行で横浜のホテルに泊まったが,夕食バイキングで「ティラミス」がでた。その甘いおしゃれな響きに,これだ!と確信した。外見は少し違ったが,バリエーションだと思った。
果たして食べてみて,しかし,「絶対に違う!」という確信が持てなかった。むしろ「いや,こんな感じの食べ物だったはずだ...」と自分を納得させようとしていた。ミルクレープの思い出はなおも薄まり,加えてティラミスが混ざり込んできてしまった。
その後も本当の名前は思い出せず,すがるような気持ちでティラミスを求めたことすらあった。
ティラミスとミルクレープの両方をはっきりと知っているいま,それを取り違えるなんて信じられないが,幼年期の記憶おそるべしである。まして,もし不幸にも,ティラミスでなくミルフィーユに出会ってしまったら,ミルクレープとは一生再会できなかったかもしれない。
(2023-Jun-18) ^目次
Tempalayのライブに行った
ライブにいくと,胸の内側がドォォォンと響いて,自分の体のなかに空洞があることを実感する。よく冬に酒を飲んで「内側から温まる」というが,ライブは内側から聞く音楽だと思う。
Tempalayと初めて出会ったのは,サ道というおっさんがサウナに入って気持ち良くなるだけのドラマだった。そのエンディングが,恐ろしく気持ちいい曲だったので気になって,Youtubeでフルで聞いてみた(Youtubeのリンク)。しかしドラマのエンディングで使われている数十秒は確かに気持ちいいのだけど,イントロやAメロのおどろおどろしさにびっくりしてしまい,慌てて聞くのをやめた。
やめた,やめたはずなんだけれど,そのおどろおどろしさも含めて引っ掛かっていた。たまにふと思い出して聞き直してみる,やっぱり違うな,しばらく忘れる。また思い出して聞き直してみる,まだ違和感,また忘れる...を何度か繰り返していたら,いつのまにかこの曲の虜になっていた。
おどろおどろしく感じたへんなパートと,その地平を突き抜けて圧倒的に気持ちいいパートとのちゃんぽんが,温冷交代浴(サウナをちょっと外していく)のような快感をもたらす,のかもしれない...
この温冷交代浴は,Tempalayの他の曲にもしばしば当てはまるし,アルバム全体にも当てはまる。交代浴の入れ子構造である。そして昨日のライブにも当てはまった。
いくつかのミュージシャンが好きでいつも聞いているけど,ライブに行ってみたいな,と思うのは,やっぱりTempalayだった。内側からTempalayを聞いたらどんなに気持ちいいだろうかと想像していた。そして実際に行ってみると...もうめちゃくちゃ気持ちよかった。
研究を少し早めに切り上げて,カノジョとおけいはんで大阪へ繰り出し,ライブに行く。ありがたい学生生活を送らせてもらっていると思った。
(2023-Jun-9) ^目次
ホウキが7本
雨が降り続いているので,申請者は今日も歩いて学校にいった。
関西は梅雨入りし,学振はついに提出された。
その結果,自転車は使えず,一人称は"申請者"になってしまった。
申請者の自宅から受け入れ機関までわずか徒歩15分であるが,楽しみを見出したい。そこで申請者はただ歩くのではなくて,なにかを数えながら行くことを着想した。自転車や街路樹の数でもいいのだけれど,もっと頑張って探し出したい。申請者はホウキに注目した。
さらに申請者は,学校までの道のりで7本見つけるという目標も立てた。
1本目と2本目は,清風荘の北側の,新しくできたラーメン屋と24時間営業のドライフラワー屋のあたりで発見できた。しかしその後は,旧今出川通を熱心にキョロキョロしながら歩くも,ついに百万遍までホウキは現れなかった。東山湯あたりでの成果を見込んでいただけに,申請者のまわりには目標達成を疑問視する声もあった。
しかし申請者は粘り強い。これは申請者の強みであると考えている。横断歩道をわたってすぐ,赤い壁の焼き鳥屋の厨房勝手口が,食材搬入のために開け放しになっているのを申請者は見逃さなかった。はたして勝手口のすぐ脇に,蛍光グリーンの毛のホウキを発見した。申請者はこの発見を一般化し,開いている厨房勝手口は特に注意することにした。その結果,読み方のわからない中華料理屋の勝手口脇にも新たに1本のホウキを発見して,合計で4本となった。ちなみにこの1本も蛍光グリーンであった。
しかし,その前後で当てにしていた,何軒か続く古書店まわり,インド料理屋まわりでは発見できなかった。
申請者のもう一つの強みは運の良さである。具体的には,市議選か府議選で共産党の事務所だった町家の隣が,業者をいれて大掃除中であった。いわゆるゴミ屋敷と化した室内を,数人がかりで片付けていたのだが,申請者はここで床に落ちた1本と,作業者の手にした1本を発見することができた。
こうして,申請者は6本のホウキを見つけることができたが,最終的に目標の7本を達成することはできなかった。残りの1本は,採用期間中に見つけることで,さらなる発展が見込まれると考えている。
(2023-Jun-6) ^目次
木曽谷を抜けて
4月1日になった。2023年度の始まりであり,京都での大学生活の実に6年目の始まりであり,しかし同時に,長い"入院生活"の序盤であるともいえる(いちおう補足しておくと,大学院博士課程での長く苦しい生活を"入院"と揶揄する冗談がある)。 これまでの5年間,一大事の連続のようなものだった。それは,京大に入学したことであり,家を出て,一人暮らしを始めたことであり,祖父母そして母と死別したことである。
そのときどきで,京都と山梨の間をいくどとなく行き来した。列車,車,原付,バイク,高速バス(これはよくなかった)と,いろんな方法をとってきた。車やバイクで帰省するには相応の計画が必要であったこともあり,突発的な用事,たいていそれは不幸なことであったが,で帰らなくてはならないときはいつも列車にお世話になった。そういったとき,列車には,たとえ呆然自失の状態であっても,私を無事に山梨に送り届けてくれるという美点があった。そして私に,ぼんやりと,ふわふわと,考える時間をくれた。
山梨は日本の陸地でもわりあい奥まった方であるので,海沿いに発展する大都市からは,わざわざ山に入り込まなくてはならない。東西の中央本線はまさにそういった趣があると思う。 京都から山梨にいくには,特急をつかっても名古屋・塩尻と都合2回の乗り換えをしなくてはならない。この名古屋と塩尻の間を特急「しなの」に乗ることのなるのだが,私は帰省の道程のなかでもっとも好きな区間がここである。 狭く長い木曽谷を,この特急はするすると走る。進行方向左手を木曽川,川から一段あがって谷の街,さらにあがって棚田,そして国道。ぎゅっとまとまった景色を一段高いところから,絵巻物を眺めるように楽しめるのだ。 しかしこの特急は揺れる。曲がりくねった線路をいくので,振り子という機能がついており,少しでも仕事をしようとすればたちまち酔ってしまう。だから仕方なく,不承不承,この景色を見ているしかないのだ。そんなこともあって,この区間が強く印象に残っているのかもしれない。
思えば,京都に来てから良いときも良くないときも,山梨に戻るたびにこの谷を通り抜けてきた。私にとって木曽谷は,ボトルネックというか特異点というか,そういう場所のように思えてくる。木曽谷を通ることで,かつてここを通ったときの気持ちが目の前の景色に重なって思い出されるのだ。
この春,木曽谷を抜けたときには,谷のそこここに灯るような桜がきれいだった。旅行先で,初めて見る車窓にこころ踊らせる良さもあるけれど,なんども通ってなお深まる魅力もあると思う。このさき,どんな出来事が,木曽谷の記憶に重なっていくんだろう。
(2023-April-1) ^目次